合気道の発祥の地山梨県


 人皇十二代景行天皇(けいこうてんのう)の27年、熊襲(くまそ)叛したるとき

皇子 日本武尊(やまとたけるのみこと)が勅命を奉じ、熊襲征伐にいく途路、

筑前の神代の滝で禊の業をとらせた。

 そのとき滝つぼの岩の一角に足を踏んまえて、両手を開き気を満たし、全身

の力を全指のさきに集中し、天に向かい突き上げること数十回、その手を前に

下し、十数回水切りをなした。

 数日の間、業を重ねた尊が熊襲を攻めんとするが熊襲は総身に堅きものを

まといたるを知り、剣にては臥(たお)せじとみて、単身女装して熊襲の営(やか

た)にはいり、熊襲の首長川上鳥師(かわかみたける)の酔臥をうかがい、これ

を蹴起こし、起き上がらんとするを、手をいっぱいに開き気を満たして打ち倒し

剣を奪いてこれを刺す。

 このときの手を開きて打ち倒したる技法、これ即ち合気のはじまりなり。


 尊はその後、この技法に研鑽を重ね、武田王命に宮廷守護の武技として伝えた

のが、後に清和天皇の第六皇子貞純(さだずみ)天皇を経て、長子経基(つねもと)

から源氏へと伝えられた。

 源氏の新羅三郎義光は、この技法に実践を基にした研究を加えて合気の技法を

編纂せられた。

 その後、義光は第二子の義清が甲斐に武田を名乗ったおり、これを家伝武術と

して授けた。

 この技法は後に「武田流合気之術」と称されるようになり門外不出の一子相伝と

して伝えられてきた。


 第24代 武田信虎のときに、第一子の信玄と父の信虎は、政策上の対立により

反目しあうところとなり、信虎は信玄によって今川家に追われた。そのため信虎は

合気之術の伝書を第9子の信友に授けた。

 それがもとで信友は信玄に追われる身となったので、一子の勝千代に伝書を

託して越前黒田藩へ逃がした。

 後年、勝千代は黒田藩において武田流合気之術を密やかに伝えた。

 
甲府駅前の武田信玄公の銅像(桜満開)
我が家の愛犬のロットの鼻子とブルマスの耳子
  平成17年(2005)の春
武田流43世
大庭一翁宗家
力道山に「秘の打ち」を伝授する
大庭一翁宗家
中村 久氏著
「合気道入門」より抜粋
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甲府駅前に
甲斐犬の銅像を
建立しませう!
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